◎身凌ぎの信心の決定版。自分の幸せは足元にある。   (一匹の犬が餌をくわえておる。わんとほえたために餌を落とす)不平不足は運命を悪くする。

昭和四十四年六月一日 月例祭


 「この方は、参って尋ねる所が無かった。」と、「みんなは遠方のところを遠路参って来るが、信心をして身に徳を受け、身凌ぎをするようになれ。」と、これは今朝の御理解でございました。

 えー教祖様が、ご信心を好きであったと。ずいぶんお宮様にもお寺様にも、そこのなんなん様、ここのなんなん様、というようにして信心をなさった。ね、それはどこまでも片便の願い捨てであった。ただお願いをして来るというだけであった。

 それがここへ参って来るようになって、信心のことわけ、ね、おかげの道理、ね、天地のご恩徳から、いろいろと分からして頂くようになり、この方が信心をしておるときには、誰も教えてくれるものが無かったけれども、みんなは遠方のところを参って来るけれども、こうして色々と教えてもらうということが、有り難いということではないかと、しっかりそのことを教えてもろうて、えー身凌ぎをするようになれと。この御理解はまあ色々に頂いて参りました御理解でございます。

 今朝の御理解を頂いておりますとこの御理解の決定版だあと、思われる程に感じました。ね、ですから身に徳を受けて身凌ぎが出来るような信心というのは、どういうことかと、えーまあ結論として一切の事柄を自分の心に全部こなしていけれると、どんなに例えば、食べ物でもそれを自分の血に肉にしていけれるという強い胃腸を頂くということだと、いうような結論がでております、ね。

 初めの間はそれこそ親が口にまあ、いわゆるこの辺では、にゃんにゃんしてちゅういわれる、にゃんにゃんして食べさせるわけです。堅いものは親がかみ砕いて、そしてそれを口移しに食べさしてくれる。ね、それがだんんだん自分で頂くようになり、例えば、あれは好かん、これは嫌だというておったものも、だんんだん年を取ってくるようになると、嫌い、子供ん時に嫌いであったものも青年期になると、それが食べれるようになり、いやむしろ、好んで頂くようになり、ね、堅いものでも柔いものでも、いや堅いものなら堅いものほど小味があるとして、頂けるようになる。

 ように私共の周囲に起きて来る様々な事柄とか問題、難儀といったようなものを、私共の心ひとつでそれが頂けれる。それを血に肉にしていけれるということが、身凌ぎが出来ることだというふうに頂いた。ね、

 そこでそういうその、おかげを頂くためには、どうしても身をもって体験さしてもらい、いわゆる信心が信心を教えてくれるという信心体験を積んだうえにも積んでいかなければいけません。積んだうえにも積んでいきませんと、それがそのままスキットしたものになってこないのです。頂けませんもん。

 そこでその何が一番、そのそういう原因をしておるかというとです、私共がいっつもそのー自分の頂いておるおかげを忘れてしまって、そして、何かこう向こうに、それこそ雲の彼方にです、幸せっていうものがおかげっていうものがあるように思うておることです。みんながそうなんです。現在のままではもう不幸せだと、自分で決めておるんです。

 だからその不幸せの中から抜け出して向こうの方へ行かなければ、幸せは無いと思っておるんです。これがそもそもの考え違いなんです。ね、幸せというのは、いわゆる自分の足元にあった。ということを気づかしてもらうようになってくるとです、有り難いのですけれども、何か人のもっておるものが良いものに見えてくる。

 人が幸せそうにしておることが、ほんとの幸せのように見える。そして、自分は不幸せ、自分はふが悪いというような考え方を持つところからです、不平不足が出て参りますから、その不平不足というのは、本当な事ではない、本当いうたらお礼を申し上げねばならんことを不平不足をいうておるのですから、おかげになるはずがありません。

 ね、そうしてです、不平不足をいうておるだけなら、まだいいんですけれども、ほんとに不平不足をいわなければならないような元を、また作り出していく。愚痴、不足をいうことから、その辺からです、運命がいわば狂うてくるということになってきますんですよね。

 一匹の犬が魚をくわえて土橋の上を通り掛かった。下を覗いた所が、もう一匹の犬が、やはり魚をくわえて向こうに立っておる。ね、自分の持っておるものは忘れてしまって、ワンと一声ほえた途端に自分の持っておるものまでも土橋の上から落としたというのである。 もうそれとおんなじようなことを、みんなが信心しとっても繰り返しておるのに驚きます。

 おかげの頂けれるはずのおかげが頂けんどころか、ほんなら現状維持でいうかというと、いやそれよりももっと不幸なことになっておるんです。ね、頂いておるものを頂こう、味わおうとしないところから、それがなら、どういうことから、そういうことになってくるかと、これはまあ人情といや人情ですけれども、信心によってお互いが本当なことが分かってくる。

 本当なことが分かってくるからです、自分のおかげをしっかり自分のおかげというものをふんまえての生き方。おかげをおかげとしての生き方なんです。

 先日から、ご主人がお金を持って、そのぽかっと出ていってから、四、五日帰って来ない。それからお願いに参りました。ね、お願いにみえたその晩に帰って来た。まあそれが腹が立ってたまらんもんじゃから、帰っていきなりですね、おやじのうずびんたんをいやちゅうほどはじき回したげな。

 もう生き戻りかちゅくらいに、こうやってこうやって、もう帰ってくるなり飛び付いていってから、こうやってからくらわしたげな。お父さん、主人というのはおとなしいんです。

 けれどもね、ほんーとに、あんたがた考えてもってもらわにゃできん。帰って来てもろうて、「嬉しかった。」と思ったのと、腹の立ったのと一緒になって、片一方の手は嬉しさ、片一方の手は腹が立っとるごたるというような状態でやったごたる。

 それからその晩、また出て行った。それからまたあくる日、それこそ泣く泣くお願いに出て来ましたから、私がね、申しますんです、毎晩毎晩、ちゃんと、きちっと給料を持って帰ってくれると、それをね、当たり前のように思うておったちゅう。ね、私がまたお願いするけん、今度帰らして頂いたら、ぼんぷはじきだすじゃなかばい、ほんとにああたが居られないことが、こんなにも寂しいことだということが、今度初めて分かったというふうに言いなさい。と、私は申しました。

 ところがです、そのことを私が申しましたらですね、もうそれこそ涙を流してです、もう私しゃは表現がへたですから、たたいた訳です、ね、そのそれやぱっり愛情の表現だったかもしれんですたい、そればってん、表現の仕方が、いわば悪かった訳ですね。(笑い)それこそこびりつかんばかりに勢いで、あんた、しかも、あんた行き戻りやってげな。ね、しかしそれはほんと言うたら、こげんも寂しかったとう表現であったでしょうけれども、その仕方が半分の心の中には、いわば不平不足が一杯だったわけなんです。

 この人ばかりは、こにゃせにゃ帰ってこんという気持ちが片一方の中にはあるわけです。そこでここで御理解を頂いてです、あなたがおられないということがこんなにも寂しいということが、今度五日間、あけられたということによって、今度ほどしみじみ分かったことはなかったということにならなきゃいけん。

 ところがここでそういう気持ちになったんです。ほんとに先生言われてみりゃそうですと、ね、言われてみりゃほんとにほんとにあの人が働いてくれるからこそ、私共親子三人ものが食べていけれておるのにです、そのことに対しての日ごろのことはもう当たり前のように思うておって、そのことに対する喜びも感謝も無かった。主人に対するところの特別のサービスもしなかったということがです、主人が金を持たせると寂しい思いをさせるようなことであっただろうと気が付いた訳です。

 ね、今日も又、お礼に出て参りました。それでちょっと手内職をしておりましたけれども、もう私は今日を限りに手内職をやめますと、そしてもうその主人を大事にするということに専念さして頂くというて、今日はお届けして帰りました。ね、そしたら主人も、今度は、一生懸命まあ、働かれるようになるだろう。また、ほんとの幸せがそこから頂けてくるようになると思う。

 私共がですね、おかげを忘れている。おかげを見失っておる。当たり前のことのように思うておる。私はこのことを自分で説かせて頂きながら自分に思い当たることがあるんです、いろいろ。

 もうほんとに、ね、まあだ五日間、帰ってみえなかったことによってです、ほんとに心配した、歯痒い、どこで遊びござるじゃろうか、という思いだけだったけれども、その五日間の間に分かったことはです、それもげんこはじいて、後から分かったことはです、いやそのことをお届けさして頂いて、ほんとのことが分かったことはです、その五日間でもおられないということが、こんなにも寂しいことだということはです、ほんならお礼を毎日、今日も帰ってもろうて有り難かった、今日も帰ってもろうて有り難かったというものがです、かげておったということに気が付いたというんです。

 ね、私共の生活の周辺に、それとおんなじことがたくさんあると思うんです。それこそ、ワンとほえたばっかりにですよね、自分のくわえておる幸せまでまた、落としてしもた。ただそれを不平不足をいうて、げんこはじきすましただけで、済みゃよかけれども、これがかえってマイナスになるんです。そこから運命がほんというたら狂うてくるです。もう帰えったって楽しみはなかごつなってくるですからね、主人としては。ね、そういう例えばですね、そのおかげを頂かしてもろうておるということ。日ごろおかげを頂いておるということを忘れておった。ね、

 今日、お祭り前に鳥栖の上野さんが、感激一杯でおかげ話を話しておられましたですね。二十年間住み慣れた家をです、家主さんがもう強引に、もう出れ、さあ出れ、もう今にも抱え出さんばかりに悪態を付いて毎日やって来る訳です。

 もういたたまれんのです。もう歯痒いもあるわけです。ね、もうご主人なんかはです、二十年間もここに住み着いたことじゃからですね、それこそそこには執着がある。誰が何というたって出らんというて、その頑張られる。

 そこで息子達みんな集まってから、いろいろとにかく、向こうもやっぱし必要に迫られておられるから出てくれであられるのであろうから、ところが日にちが無い。ね、もうそれこそ、火のつくように催促である。

 それで何回目かのお願いに主人が見えて参りましたときに、家族で出て見えたときに申しました。上野さん、第一ねえ、そのー神様の心を分からにゃいかんよ、ち。その家主が出て行け、もう出て行け、抱え出すようにするなら腹ん立つけれども、それが神様と思うたら、どうかと私がいうんです。ね、同時にね、例えばね、ここからもう二十年もおった家じゃから、もうそれこそ住み心地が良いから、もうおれはこれから死んだっち動かんちゅういうような、そういう執着な心が、神様の心に適わん。

 例えば、なら私が椛目からもう椛目はない、親代々から住まわっとるところじゃから、誰が何というたって椛目から動かんいうよったら、ここは出来とらんよ。私は申しました。ね、それも自分から出て行こうのじゃない。あそこを出て行かなければならないような働きが起こってきたことを、私はおかげと思うてこっち出て来た。おかげと思うて神様にお願いさして頂きよったら、このような立派なところに住み替えさして頂くことが出来たんだから、神様はどういう御神意、御都合やらわからんから、そこを有り難う頂かにゃいけん、と言うて懇々と御理解さして頂きましたら、ご主人もそれが分かられた。

 家族のものも勢を揃えてそのことに焦点を置いて家探しにかかられた。もうそれこそ、それこそ思い以上のおかげをですね、神ながらに、ほんなこて夢じゃなかろかちゅうごたるごと、おかげを頂いた。

 今日も早めに夫婦で参って見えましたから、どげんですか、住み心地は、て。もう第一環境が良い。周囲には公園があって、温泉があって、ちょっとその交通の便は少し悪いですけれどもです、もうそれこそ、もうほんとに下宿でもしてよいごと部屋もたくさんある。古い家ではあるけれどもがっちりした家である。ね、屋敷もそれにはついておる。もうどげん考えたっちゃ夢のような、もう私共が住まわせて頂いてもう何日になりますけれども、毎日毎日その家が奇麗になっていくということが有り難い。

 先日からは、奥さんのおじさんに当たる方が普請をされた。そこでそこの建具が何十枚というて、そのー新しいですから古い建具は使えませんからね、それを全部貰ってきてあった。これはもう、焚きもんにぐらにはなるかもしれんけど、ドアも一緒に持って来てあった。ところがさっきも話しておられたように、これはここにどうじゃろかちゅうところにきちっときちっとはまっていく訳ですね。もう誂えたようにはまっていくわけですねえ。そんたんべんに、はあーちゅうてから、拝んで回ったちゅいうてから言うておられましたように、ね、最後にこれは焚きもんにしかなるめえちゅうのが、大きなドアがここんところへもうそれこそ誂えたようにきちっとはめなければならんところがあったとこういうのである。ね、畳みも作りそこねてあった、その畳がです、あんたんところで、まあ、ただでやる訳にはいかんけん安目で取ってくれちゅう言いよるから、まあ安くてそれをひかして頂くようなおかげを頂いた。

 ひとつひとつ部屋が見違えるように奇麗になってきた。ね、そりゃもうたいへんたくさんな金額のことでございましたけれども、もうとにかくお金がなかったちゅう、ほんというと。それがね、もうほんとに神様の御都合お繰り合わせと思わなければおられない、神様が追い出しござるとじゃない、さあ、この家に移らし住まわせようとなさっておられる働きがある証拠にです、それこそ据え膳の前に座るようなお繰り合わせ頂いておるんです。

 ほんならこのことからひとつ皆さん考えてですたいね、どうしたふうに鬼ごたる、その家主じゃろうかと恨むことはどういうことになりますでしょうか。ねえ、もうこれはたいへんな御無礼でしょうが。

 ね、何にも知らん凡夫とはいいながらです、このこういうおかげを頂かせようと思うて、こういう働きが始まっておるのに、その働きを不平不足、血の涙の出るような思いで、神様のお嫌いなる執着な心をもってそこから嫌だと言うて出まいとしておるというんですから。ね、だから、このひとことからでもですね、いわゆる本当なことが分かったら、それがおかげ、それもお礼を申し上げることばっかりだということなんです。

 上野さんの、そのおかげ話の中から感じられることは、そうでしょうが、ねえ、ですからそのようにしてですね、ほんとうなことが分からして頂くのですから、ね、そこんところを本当なこととして分からしてもらう。

 ね、例えば主人が五日間も出とったというてもです、お願いをさして頂いたら帰って来たと。その間に神様が、何を分からして下さろうとしておったかと。五日間、寂しい思いをさせ、歯痒い思いをさせながらです、ね、だから、寂しい思いじゃない、歯痒い思いじゃない、この五日間の間です、ね、五日間主人が帰って来ないということが、このようにも寂しいことであるということが分からして頂いた。

 次の生活の中からです、もう、ほんとに主人が顔見たら、小躍りして喜ばなければおれないようなおかげを頂いておるのに、お互いがそれを当たり前のようにしておるということがです、喜びを忘れておる訳です。お礼を申し上げるところを失礼しておる。ね、今日も無事帰らせて頂いたとういことがです、ね、あなたが帰って来て下さったということがこんなにも嬉しいことだという、その嬉しい思いで、主人に接するというかね、たとえて言うと。

 ね、そこからいよいよ、ほんとうなおかげが頂けてくるようになる。頂いておるおかげを忘れておる。ね、頂いておるおかげが当たり前のことになっておる。そこから私は間違いが起こって来るんだと思う。ねえ、で、もうひとつ皆さん、せっかくおかげを頂かしてもらうのでございますからです、本当のことが分かるということはね、例えば、腹が立つことがかえって有り難いこと、ね、いらいらするということは、神様に対して相済まんこと。

 お礼を申し上げねばならんことに、いらいらしておるということになるのですから、ね、いらいらしたり腹が立っておったりというところにです、ね、まあだ自分が身凌ぎが出来る信心が出けていないんだと悟らしてもろうて、ね、信心の稽古さしてもらわなければいけんということ。ね、ですから、ここに参ってくるものがです、ね、そういう信心の稽古をさせて頂くんだ、頂かせて頂く、そういう稽古に通うて来ておるという姿勢がまず第一であるということが分かります。

 ね、この方は参って尋ねるところがなかった。みんなが遠路のところを参って来るが、信心して身に徳をを受けて身凌ぎが出来るようになれ。とこうおっしゃる。身凌ぎが出来るようになるということは、ね、ここへ、ね、うんーこの方は参って尋ねるところがなかったと、こういう。すとみんなはここへ参って尋ねるところがあるということなんです。何を尋ねるかというと、ほんとうなこと信心の道を尋ねるのです。

 だから、そのことを尋ね、そのことを稽古にここにはこなけりゃならないということが分かるじゃないかと。でなかったら身凌ぎが出来るようなおかげにはなってこない。身凌ぎが出来るということはです、ね、例えば私共のおかげをおかげとほんとに分からしてもろうて、ね、見落とす事なくおかげをおかげと気付かしてもろうて、お礼を申し上げていけれる信心。

 そういう信心を今日は身凌ぎの出来る信心というふうに頂きました。ね、皆さん、どこまで身凌ぎが出けておるだろうか。ね、身凌ぎをするようになれ。自分のことは自分でお伺いぐらい出来るごとになれというふうに今までは頂いておりましたですね、ここんところを。けども、今日頂きましたのはそうじゃない、ね、ほんとうなことほんとなのことと分からして頂くところから、ね、今まで不平に思うたり、不足に思うておったりしたことがです、ね、間違いであったということ。それをお礼を申し上げねばならないことであった、おかげであったと分からして頂くような信心。

 いわゆる自分の心でこなしていくということ。ね、おかげは自分の心ひとつにある。いわゆるそれはどういうことかというと、本当なことを分からして頂く心におかげがあるということなのです。ね、歯痒いと思うておったことが、そのことで成る程、そのことは寂しかったに違いはない、歯痒いもあったろうけれども、よくよく考えさして頂きよったら、このようにもこの人がおられないということが、寂しいんだと分かった。本当のことが分かった訳です。

 そこにはあくる日帰ってきておるというおかげを頂いておる。そこにはもうげんこはじくだんじゃない、あなたがおられなかったらこんなに寂しい事は、これで分かったということになるから、主人もそこに感じないわけにはいけないようなおかげがそこに展開してくる。

 ね、ですから、おかげはほんとうに自分の心次第でです、おかげ場合はづぅと進むかと思うと、かえってですね、その例えば頂いておるものまではずすような、ね、おかげというものは向こうにしかなかごと思うておる、そこんところにワンとほえる、それを頂いとるおかげまでも取り落としてしまう。そこからより難儀な心な運命がそこに待ち構えておる。ね、そういう人がどのくらい多いかわからん。

 私共はそのこちらの方を取らずにこちらの方を取らして頂いて、ということは本当なことが分かって、本当なこと、そこからです、ね、御礼を申さしてもらえれる信心。ひとつ皆さん、その先っき話しましたその主人の気持ちをひとつ考えてみて下さい。ね、もうほんとに何日間も遊んで金使うて帰って来て、家内がどげんいうじゃろうかと思うちから、今度はまたくらわされるかとしらん思うちから、えずいわば帰って来たら、その主人にです、ほんとにね、あなたがおられんことがこんなに苦しい寂しいことだと初めて分かったと、もし聞いたとしてごらんなさい、その主人に。

 あなたがたがその気になってご覧なさいて、それこそこの家内のために本気でひとつ働かにゃおられないという心が誰だって起こりますよ。自分という存在がこんなにも認められたんですから、自分という存在がこんなにも家内を有り難くさせておるのですから、この家内を寂しい思いやら苦しい思いやらはさせられんということになりましょうが、ね、神様とても同じこと。

 そこんところが分からして頂いて、今まで不平不足、どうしてわたしはこんなに難儀なと思うておったのをです、神様がこのようにして私をお育て下さるんだ、このようにしておかげの方へ向けて下さるんだと、分からして頂く時にです、この氏子のために神様が働きなさらん訳にはいかんのん。

 今まで執着であったその心が取れて、ね、神様がよりよいおかげを下さることのためにこれがあるんだと、上野さんが悟られたところに夢にも思わなかったおかげが、そこから金銭のうえにも家のうえにも、それからその後の例えば、その建具類の事の上に至るまで神様が御準備下さったようなおかげを受けておられるという事実から、ね、そこを分からんことはこんなにばからしいことはないということが分かりますですね。どうぞ